財政破綻

その日、そして・・・生き抜け!

 日本の国債、株そして通貨(円)が際限なく売られる、「その日(Xデイ)」が来る!?どれだけ円安が進んでも頑なに姿勢を変えようとしなかった黒田日銀、そして後を受けた植田総裁を見ていると、「その日」が次第に現実味を帯びて来ているように思えます。「日本の財政が破綻するなんてありえない!」と主張する人はたくさんいますが、万が一最悪のシナリオが現実になった時、その人たちが私たちの生活を保障してくれる訳ではありません。

 万が一「その日」が現実となったとき、その後の日々をどう生き抜くか・・・?資産運用の勉強をしているうちに生じた不安を、「そうなってほしくない一つの可能性」としてストーリーにまとめてみようと考えました。少しずつ更新していきます。気長にお付き合いいただけましたら幸いです。

プロローグ 2024年(”終わり”の始まり)

トシ(城倉寿郎)・・・・地方都市の自動車ディーラーで営業を担当 難しい年頃の娘の扱いに悩む47歳

ミキ(美紀子)・・・・・トシの妻、病院で事務を担当 子ども達の教育に熱心な42歳

シゲ(茂明)・・・・・・長男、中学2年 ちょっと変わった14歳

ヒナ(日向)・・・・・・長女、高校2年 ちょっと気の強い16歳 シゲとはよくケンカをするが、いざとなると弟をかばって闘う    

大沢穂波・・・・・・・・トシの職場の同僚 トシに好意を持っている

野崎達雄・・・・・・・・”Xデイ”当時の首相。混乱の責任を取って辞任

橋本善造・・・・・・・・財務大臣。保身に巧みで狡猾な人物

神 廣人・・・・・・・・官房長官。誠実な人柄で、人望がある。

羽田洋一郎・・・・・・・財務官。財務省きっての切れ者との評判が高い。

吉川雅章・・・・・・・・野崎の後を受けて首相に。引退していた石巻を特別財務顧問に引っ張り出す

新田 忠・・・・・・・・”Xデイ”当時の日銀総裁。混乱の責任を取って辞職。後に自殺

飯沼 聡・・・・・・・・新田の後を受けて日銀総裁に。財務の建て直しに奔走する。

高畑正道・・・・・・・・新民党党首。政権批判の先頭に立つ。

タケ(石巻武幸)・・・・謎の老人、シゲの知り合い。トシが読んだ本の著者。引退していたが、吉川に懇願され特別財務顧問を引き受ける。

 それは、いつもと変わらない夏の終わりの蒸し暑い朝だった。城倉寿郎(トシ)は気がつくと、赤黒い大きな顔の魔物に追いかけられていた。「これはきっと夢だ!」そう思いながらも、同時に「逃げなくては!」と焦った。必死に魔物から逃げようとするが、なぜか足が前に進まない。足元を見ると、つる草のような物が両足にからみついている。死に物狂いで何とか引きちぎってホッとする間もなく、魔物の荒い息づかいがすぐ背後に迫ってくる・・・。「うわっ!」思わず声が出て目が覚めた。

 夢だった。しかしながら、魔物の顔の色や奥深い、鋭い目の輝き、吐く息の何とも言えない生ぐささ・・・。妙にリアリティのある夢だった。「やれやれ、やっぱり夢だったか・・・」とため息をつきながらいつもの習慣で枕元のスマホに目をやると、スマートニュースの見出しが飛び込んできた。「シドニー市場で円はドルに対して13円の円安。橋本財務大臣は為替の推移について『引き続き、緊張感を持って注視していく。』とコメント。」 今年に入って円はドルに対してじりじりと下がっていたが、1日で13円は異常だ。「まさか・・・。もしかして、とうとう”その日“が来ちまったか!?」トシは心の中でつぶやいた。鼓動が速くなり、全身をアドレナリンが駆けめぐるのが感じられるようだった。

 何とか気を落ち着けながら1階のリビングに降りると、妻の美紀子(ミキ)はもう朝食の支度を始めていた。「おはよう!」トシが声をかけた。「あら、早いわね。じきに用意できるから、燃えるゴミ出してきて。」ミキの声も、リビングの空気もいつもと何も変わらない。トシは1人ドキドキしながらゴミの袋を持ち、テーブルの上にある買ったばかりのスマートスピーカーに「ニュースを見せて!」と話しかけた。

 テレビが自動で映像を映し出した。アナウンサーがやや緊張した面持ちで、為替相場の大きな変動と橋本財務大臣のコメントを伝えていた。「成り行きを注視すると共に、市場に動揺を与えないよう必要な政策を取っていく。」続きが気になったが、ミキに「まだ行ってないの?早くゴミ出して、ヒナとシゲを起こしてきて!」とうながされ、仕方なくテレビの前を離れた。

1.その日

 その兆しは以前の諸橋内閣当時から現れていた。米国の格付け会社S&Pが日本国債の格付けをチリと同等に引き下げて以降、損保などの機関投資家が国債から外国債などにシフトし始めていることに危機感を抱いた内閣は、リフレ派の新田忠を日銀総裁に抜擢。本来独立性を保つはずの日銀に「インフレターゲット2%達成のための異次元の金融緩和」という名目で、国債の爆買いを押しつけた。新型コロナウィルスによる世界的なパンデミックにより1年間延期され、ようやく開催された東京オリンピック。その閉会から間もなく、ネットには「投資の世界の大物ミスターSが、オリンピック後の日本の景気落ち込みを見て、先物で円を売り浴びせようとしている」という不気味な噂がまことしやかに流れていた。

 地方都市の自動車ディーラーで営業を担当しているトシだが、「財政」や「金融」といった分野にはほとんど興味を持っていなかった。教育資金や老後に備えて、できる範囲で預貯金はしていたが、少しでも高い金利を求めて定期預金にするくらいだった。ところがある日、仕事帰りにふと立ち寄った本屋の経済・社会コーナーで、一冊のタイトルに目が留まった。「日本破綻!」「日本が破綻する?。どういくことだ?」

 半分怖いもの見たさでその本を手に取ったトシは、パラパラとページをめくっていくうちに思わず引き込まれて読み進めてしまった。そこに書かれていたのは、日本の危機的な財政状況とそれがもたらす最悪のシナリオだった。「国が破綻する」などという事については考えたことも無かったが、具体的な数字を挙げながら整然と展開される筆者の論理には、経済の動きに特別関心がなかったトシでさえもうなずかざるを得なかった。

 その日からトシは経済の動向に興味を持つようになり、時間を見つけては図書館に通ったりネットで調べたりするようになっていた。資産運用や暗号資産(仮想通貨)などにも関心を持つようになったトシの頭の片隅に、「このまま行けば、日本の財政はいつか大変なことになるかもしれない・・・」という危惧がこびりついて離れなくなっていた。

 長女の日向(ヒナ)に声を掛けると、「起きてるよ!」とすぐに返事が返ってきた。難しい年頃の長女とトシはお互い何となく気を遣うようになり、すれ違うことが多くなっている。それでも返事をしてくれるだけ、同僚などから聞く悲しすぎる父娘の関係には、少なくとも今のところはなっていないということか。

 続いて長男の茂明(シゲ)の部屋のドアをノックする。反応がないので開けてみると、いつもながら死んだように寝ている。これを起こすのが毎朝一苦労だ。妻のミキが言うには、 中2の息子のシゲには他人と違う”特性”があるらしい。先日も、夏休みの最初の週末、家族で出かける朝のことだ。ミキが作ってくれた弁当もバッグに収まり、他の家族は出発の準備を着々と進めている中、シゲはミキに向かって同じ言葉を繰り返していた。「何着てけばいいの〜?」 普段から学校でも、寝る時にもジャージの上下ばかりで通している彼は、「お出かけの時ぐらいジャージはやめてね。」とミキに言われても、どこにどんな服があるのか、何を選べばいいのかサッパリ見当がつかないらしい。

 「パンツだって何本も買ってあるでしょう!」ミキにブツクサ言われながらやっとこさジーンズを引っ張り出してきたと思うと、「入らないよ~!」運動不足と食べ過ぎで、中2ながらお腹の肉がダブついていて入らないのだ。「シゲは、ジャージしか着られないカラダになっちまったんだな。」トシに皮肉を言われながら、結局その日もジャージでお出かけとあいなった。もっともシゲは言われたことをそのまま受け取るから、「チョットは運動しないと。」というトシの言葉の裏の思いにはお構いなく、「そうだよな〜。やっぱり僕はジャージを着るように出来てるんだ。」と納得しただけだった。

 何事もマイペースな、と言うかゆっくりなシゲのせいで出かける予定が20〜30分ずれ込むのは何時ものことだ。家族を待たせても一向に気に留める風もなく、気がつけばお気に入りの電車の図鑑などを読み耽っている彼にミキやヒナが文句を言い、彼が逆ギレして楽しいはずのお出かけのスタートが気まずくなるのも何時ものことだ。一事が万事この調子なので、学校でも「ちょっと変わってるね。」で済まされればいい方で、友だちと様々なトラブルを引き起こし、その度に親が学校に呼ばれた。小学校では結局卒業まで「困った子」のレッテルを貼られ続けてきた。とにかく相手の気持ちを想像すること、自分の気持ちを言葉にして伝える事が苦手で、自分では気がつかずに相手を怒らせてしまう事も度々だ。

 そのシゲが、3カ月ほど前からおかしな事を口にするようになっていた。「キーンていうの!」と彼は言うのだが、聞いてみると時々得体の知れない振動を感じて不安になるというのだ。家族の誰かが一緒の時もその振動を感じるらしいが、シゲ以外の者が耳を澄ませても何も感じられない。熱がある訳でもなく、頭痛や他の不調も無さそうなので医者に診せる事もして来なかった。そのシゲを何とか起こして朝食を取り、子どもたちの世話を焼いているミキに「行ってきます。」と声を掛けて家を出た。

 駅に着いても、一見するといつもと特に変わった様子は無かった。無言で改札に吸い込まれていくビジネスマンや学生たちの流れに乗ってホームに出る。けれど、電車を待つ間気をつけて周りを観察してみると、どことなくいつもと違う空気が漂っているのに気づいた。固い表情でスマホを見つめている男女が何人かいる。と突然、一人の男が顔面を紅潮させながら、辺り構わずスマホにまくし立て始めた。周りの乗客たちがギョッとして彼を見つめるが、少しも意に介する様子が無い。「いくら何でも、その金額じゃ取引にならない!今までのレートで何とかしてもらえないか、もう一度あちらさんに掛け合ってみてくれ!」

 いつもと同じだと思っていたホームの景色が、何やらピリピリとささくれ立って来るのが感じられた。「輸入か流通の関係者か・・・」トシは思った。電車に乗り込んでも、何時もながら満員の車内に、真剣な面持ちでスマホを覗き込んでいる何人もの男女が目に付いた。むせ返るような人いきれと汗の臭いに加えて、彼らが放つ言いようのないオーラで、車内はいつにも増して居心地が悪かった。

 会社に着いてドアを開けると、いつもと全く変わらない空気が流れていて、為替の変動など話題にする者さえいなかった。「おはようございます!」入社2年目の大沢穂波が、いつもと変わらない笑顔で声を掛けてきた。「城倉さん、どうかしました?何だか奥さんとケンカしてきました!みたいな顔してますよ。」地元出身の彼女は、入社面接をトシが担当した縁もあって何かと相談を受ける。細かい点に気が回って仕事ぶりも丁寧なので、トシも特に目を掛けてきた一人だ。「え?ああ大丈夫。ちょっと疲れがたまってるかな。」彼女とは仕事以外の話をしたことは無かった。為替の話などしてもきょとんとされるのが落ちだろう。トシは内心の動揺を押し殺し、仕事に取りかかろうとデスクに腰を下ろした。

 同じ日の午前、総理官邸閣議室に緊急の会議が招集された。丸テーブルを囲んで、野崎達雄総理をはじめ、緊急に招集された神廣人官房長官、橋本善造財務大臣、羽田洋一郎財務官、そして新田忠日銀総裁らが一堂に会していた。皆一様に緊張した面持ちの中、一人財務大臣の橋本だけがいつもと変わらず落ち着いているように見えた。議題は現下の為替の情勢および原因の分析と、考え得る対策を出し合うことだった。

 財務省きっての切れ者と言われている羽田財務官が口火を切った。「報告させていただきます。今回の円安は、今年に入ってからの貿易収支の赤字と日銀にによる国債の買い入れ増を見て、国債の売り圧力を強めていた外国人投資家が、前回の為替介入後の米国政府の反応からこれ以上の介入は無いと見て、円を売り浴びせて来ていることによるものと思われます。財務省としましては、過度な為替の変動を避けるため、直ちに米国政府と協議の上、日銀に相当額の為替介入を要請したいと考えております。」

 羽田の報告を硬い表情で聞いていた野崎首相が、急に大声を出した。「新田君、円は下げ止まるのか、それともこの先も落ちていくのか、君の見通しはどうなんだ!」野崎からの質問を予期していたのだろう、部屋に入って来る前から顔をこわばらせていた日銀総裁の新田が、ドギマギしながら答えた。「日銀としましては、直ちに経営会議を招集しまして、財務省および米国政府と緊密に連携しながら、ドル売り円買いの介入を行う所存であります。」

 財務大臣の橋本が、どこか場違いなのんびりした口調で発言した。「この24時間あまりで、円の落ち込みに引きずられる形で国債の価格が13パーセント程度下落しております。それに伴い金利が上昇することで財政に負の圧力がかかってくることを危惧しております。今現在開いているどの市場でも円はドル等に対して下げ続けておりまして、このままだと終わり値では20円近くの下げになる可能性があります。一刻も早い介入が、必要と思われます。」発言の内容に反して緊張感の薄い橋本の言いぶりで更にいら立った野崎が、鋭い視線を羽田に向けた。「羽田君はこの先の動きをどう見ているのかね。」

 「年初以降、我が国経済のファンダメンタルスに明るい材料が乏しいのは確かです。わが国の経常収支の赤字拡大、および米国FRBによる利上げの影響で、円はドルに対して年初来ほぼ一貫して下げて続けてきました。各国の中央銀行がインフレに対抗するため、こぞって利上げおよびQT(量的引き締め)に動く中で、わが日銀のみがかたくなに量的金融緩和政策をとり続けておりますが、短期的には円高に振れる調整局面があるとしても、中長期的に見れば、大幅な円安を招きかねないことを危惧しております。同時に、仮に海外勢の売りに負けて国債の利上げを行った場合、歯止めの無い金利上昇および国債価格の下落につながり、ひいては国債の格付け引き下げ、日本企業の外貨調達困難、株価の下落、日銀の信用が失墜することによるインフレの更なる悪化といった「負の連鎖」を引き起こしかねません。今回の大幅な円の落ち込みが、そうした事態を見越した意図的なものだとすると、一時的なものでは済まない可能性があります。」羽田は沈鬱な面持ちで答えた。

 「事態を放置すると、わが国が大変な事態に見舞われるらしいことはよく分かった。新田君、信用秩序の維持と物価の安定は君達日銀の仕事だろう。万一円が暴落してハイパーインフレにでもなったら、どう責任を取るつもりだね。」苦い顔で野崎が聞いた。「そうおっしゃられても、」新田が額の汗を拭きながら言い訳めいた発言をした。「今回の事態は前の尾山総理の要請で行ってきた緩和政策の言わば当然の帰結といったものであります。」

 「まさか君は、責任を政府に転嫁しようというつもりじゃないだろうね。」野崎が再び声を荒げた。「しかしながら、」さすがにたまりかねたのか、新田が顔を赤らめながら憤然として言い放った。「私ども日銀は、国債および円の価値を死守するため、上限を設けずに国債を買い入れるなど、最大限の努力を重ねております。」見かねて官房長官の神が割って入った。「今回の事態を受けて、国債10年ものの金利が0.5%から0.92%に跳ね上がっています。とにかく、今は一刻も早く為替相場に介入して、金利の安定化を図ることが先決だと思います。」野崎が新田に強い口調で釘を刺した。「為替の安定とインフレの防止が君たち日銀の職務だろう。ともかくも一刻も早く手を打って、これ以上マーケットが動揺しないよう、全力を尽くしてくれたまえ!」

 閣議は終了した。拳を握りしめたまま動こうとしない新田を一人残し、参加者たちは息の詰まりそうな重苦しい緊張感から逃れるように、そそくさと閣議室を後にした。

 その日、早めに仕事を切り上げたトシが帰宅すると、妻のミキは夕食の支度をしているところだった。キッチンに、玉ネギとニンニクの焦げるいい匂いが漂っていた。「あら、ずいぶん早いわね。何かあったの?」「別に何も・・・。それより、ママの職場で為替のこと誰か話してなかった?」トシの家では、トシもミキも互いを「ママ」「パパ」と呼んでいる。

 「何よ、やぶから棒に。そうねえ・・・。そう言えば資産運用が趣味の中塚ドクターが、お昼の後で受付を通りかかったとき、『ドルがずい分上がったよ!儲かったら、みんなに焼き肉奢るね。』ってにこにこしながら言ってたわね。それがどうかしたの?」壁に掛かっているフライパンを下ろしながらミキが聞いた。「うん・・・。今日の夕方までに円が18円近く値下がりしたんだ。前ママにも話したけど、これから日本の経済は大変なことになるかもしれないよ。」「はいはい。またパパの『大変だ~!』が出たわね。」

 図書館に通ったりセミナーに参加したりするようになって以来、為替相場に過敏な反応を示すようになったトシは、以前から何回かミキに財政が破綻した場合のシナリオについて説明しようと試みてきた。家計のやり繰りや、何だかんだと難癖を付けてトシの小遣いを減らそうとすることには熱心でも、国の財政などおよそ興味のないミキは、その度に「また始まった・・・」という顔をするだけで、全く取り合おうとはしなかった。今日もミキの顔が強ばりかけているのに気づいて、トシはそれ以上話を続けようとはしなかった。

 けれども、夜9時のニュースで円の大幅な値下がりがトップニュースになると、息子のシゲの宿題をチェックしていたミキも、手を止めて画面に目を向けた。「またガソリンが高くなっちゃうわね・・・。ほんとに大変なことになるの?」食い入るように画面を見つめていたトシに、ミキが聞いた。

 「もしかしたら、一時的な動きかもしれない。僕だって、悪いシナリオが現実になるのはゴメンだよ。でも前にも話したけど、今までに行き詰まったギリシャや他のどの国と比べても、日本の財政はずっと深刻な状態なんだ。今まで破綻していないのが不思議だっていう専門家もいる。」黙って二人のやり取りを聞いていたシゲが、突然口を開いた。「今日も、キーンて聞こえたよ。今までで、一番大きかった。」トシとミキは思わず顔を見合わせた。二人の顔に、これから起こるかもしれない事態への漠然とした不安が張り付いていた・・・。

2.緊迫するニュースと、対照的に呆れるほど脳天気な周りの反応・正常性バイアス

翌朝、トシはいつもより1時間以上早く目を覚まし、早速ニュースをチェックした。新聞の一面には、しばらく見なかった大きな活字で「円大幅安!国債価格も急落!政府・日銀緊急会合開催」といった見出しが躍っていた。海外のメディアもいち早く反応し「Japan crashed!」という言葉が世界に広がった。しかしながら夜の間に海外の為替相場で利益確定のドル売り円買いが入り、円はドルに対してやや値を戻していた。「やれやれ、もしかしたらこのまま落ち着いてくれるかも・・・。」市場関係者はもちろん、トシのように為替の動きに注目していた多くの人々がひとまずホッとしたのも束の間、午後に入ると円は再び値を下げ始め、結局前日の終わり値に比べて18円以上の円安で引けた。株も多くは値を下げたが、輸出関連株は大きく買われ、明暗を分けた。トシは仕事中もマーケットの動きが気になり、トイレに行く度にスマホをチェックした。

その日の午後、トシは近隣の系列ディーラーが集まる会議に出席する事になっていた。会場に着くと、トシは知り合いの誰彼となく、マーケットの動きをどう思うか聞いて回った。職場でも責任ある立場の集まりのためか、金融市場の変動に敏感な人間が多く、向こうから話しかけてくる者も何人かいた。今後の為替や円の動き、そしてそれがもたらすだろう経済や社会への影響を真剣に危惧している人間もいたが、大勢としては「今回の動きは一時的なもので、そのうち落ち着くだろう。」という楽観的な見方が多かった。より正確に言えば、「そう見たがっていた」のかもしれない。そんな中で、六本松支店で営業を統括している郷之原智哉は、トシと同期で、仕事上のライバルでもあり、気が置けない飲み仲間でもある。その郷之原が、トシの顔を見るなり肩を抱えるようにして会場の隅に連れて行き、「日本は、これから大変なことになるかもしれんな。お前はどう思う?」と聞いてきた。トシが何か答えようとする前に、郷之原が続けた。「おれが見るところ、この円安は一時的なものじゃない。株や債券を巻き込んで、日本全体がバーゲンセールの大安売り!ってことになりかねん。そうなったら、うちの会社も外資に買われて、ボスと英語か中国語で話すことになるかもしれないだろ。この歳で一から中国語はしんどいから、おれは今日から英会話を始めることにした。」

普段から段取りのいい男だとは思っていたが、トシの心配を先取りした上に、最悪の場合に備えて次のステップへ一歩踏み出そうとしている手際の良さには舌を巻く。おまけにいつもは口癖のように「わが社は・・・」と言っている郷之原が、「うちの会社」と一歩引いた言い方をしていることに初めは違和感を感じたが、彼が状況をそれだけ深刻にとらえていることがうかがえた。トシも同じように「これから」に不安を抱いていることを伝え、近いうちに飲む約束をして彼と別れた。

新聞の1面には、連日大き目の見出しで「円続落」「株・債券、全面安続く」「政府・日銀緊急会合」等の文字が躍っていた。経済の動きを伝えるアナウンサーの顔つきは日増しに深刻さを増し、ワイドショーや特集番組では、何人もの「専門家」が原因の分析やこれからの見通しについて様々な見解を述べていた。悲観的な意見も多かったが、楽観的な見通しを語る者もいて、視聴者を一喜一憂させていた。しかしながら、経済の動きに関心の薄い人々にとっては、それらも日々流れてくる多くのニュースの一つに過ぎなかった。一方で、急激な円安に伴い、輸入材を中心に早くも値上げされる商品がいくつも出てきて、それもニュースを賑わせた。生活を年金に頼っている高齢者にとっては切実で、病院の待合室でも「これ以上物価が上がったらやっていけんなあ!」「息子夫婦に迷惑をかけたくないと思ってきたが、このままじゃ生きていけんわ!」などという会話が交わされるようになっていた。他方、ドル資産を持っている投資家たちは日々資産が大きく値上がりし、密かにほくそ笑んでいた。その間にも、ここぞとばかりに国債を売り浴びせてくる外国勢は少しも手を緩めず、新田日銀は連日、国債を買い支えようと必死に戦っていた。

 「こんな時に日銀の総裁をやってなきゃならないなんて、新田さんはさぞかし『しまったなあ』と思ってるだろうな。」テレビのニュース画面を見ながら遅い夕食をとっていたトシが、ミキに話しかけた。経済が動揺するあおりを受けて、トシはこのところ今まで以上に帰りが遅くなることが多かった。「日銀の総裁って、いいお給料もらってるんでしょう。いいじゃないの、もっと働いてほしいわ。色んな物の値段が上がって、庶民は大変なんだから。」片付け物を済ませて、ほっと一息モードのミキだったが、口調はいつになくきつかった。「それより、今日学校から電話もらったんだけど、担任の先生の話だと、休み時間にシゲがお友達とけんかして、相手の子に手を出しちゃったらしいの。帰ってきてから聞いたけど、何にも言わないし。とりあえず相手の家に電話して謝っておいたけど、明日の朝、パパからも聞いてみてもらえる?」「シゲが手を出すなんて、よっぽど何かされたんじゃないのかなあ。それで、シゲや相手の子にケガはなかったのか。」「幸い傷になったり、赤くなったりはしてないみたい。あちらのお母さんも『うちの子がシゲちゃんを怒らせたみたいで、すみません。』て謝っていただいたので、逆に申し訳なくて。難しいお家じゃなくて、良かったわ。」

 「あの日」以来の経済の変動について、高校生のヒナと会話を交わしたことはあったが、中学生のシゲとのやりとりで意識したことはない。けれど、人一倍マイペースで、聞いてほしいことは聞いていないくせに、聞いていないようでいて実は聞いていることも多いシゲは、大人が動揺しているのを感じ取っているようだ。「あの日」の前には中学生とは思えないほど早く寝てしまっていたシゲが、この数日なかなか寝つかずに、ミキを手こずらせている。毎朝シゲを起こすのはトシの日課だったが、最近では、いつもの時間に行くともう起きていて、何やらブツブツ言いながら着替えをしていることが多い。「周りの大人の雰囲気が、学校でのトラブルにつながってるなんてことがなきゃいいんだけど。」いずれにしても、シゲが自分のしたことをどう考えているかは気になる。ミキが聞いても答えなかったことを、俺に話してくれるだろうか。「なるべくさり気なく聞いてみるか。」2階の子ども部屋を見上げながら、トシは思った。

 翌朝、トシはいつもより早く目覚ましをセットしていた。起き抜けのシゲは、あまり機嫌がいいとは言えないことが多いが、友だちに手を出したとなれば、とにかく早めに話を聞いておかない訳にいかない。この頃シゲは自分から早く起きるようになった、とは言えまだ起きる時刻ではない。「さすがにまだ寝ているだろうな。」と思いながら、そっとシゲの部屋のドアを開けたトシは、思わず「あっ!」と声を上げそうになった。寝ていると思っていたシゲが、ベッドの中央にパンツ1枚でヨガのヘッドスタンド(頭立ち)のポーズを取っているのだ。真面目くさった顔つきで正面を見ていたシゲは、トシと目が合うとニコッとして言った。「おはよう、パパ!今朝は早いね。」言った途端、シゲはバランスを崩してドサッとベッドに倒れ込んだ。「大丈夫か?」トシは、思わず声をかけた。「朝から何やってんだ?だいたい、いつからヨガなんてやるようになったんだい。」思わぬ展開に面食らいながら、トシが聞いた。

 「ヨガって言うんだ。動画を見てたら面白そうだったからやってみようと思ってたんだけど、昨日はちょっと心が折れていたもんだから、今朝やってみたの。」意外なほどあっさりと、今朝の核心が自分から近づいてきた。そう、知りたいのは、どうして「ちょっと心が折れた」のかだ。「ふーん、そうなんだ。で、折れた心はだいぶ治ってきたのかい。」直接聞きたいところだが、シゲを警戒させると、本当のことを話そうとしないかもしれない。まずは、変化球で様子を見てみる。「もうすっかり治ったよ!」よかった。今朝はいつになく機嫌がよさそうだ。昨日のいきさつが聞けるかもしれない。「どうして『ちょっと心が折れた』のか、聞いてもいいかい。」

 「いいよ。」ちょっと真面目な顔つきでシゲが話し始めた。「パパにも話したと思うけど、この頃時々空気がキーンて鳴る、っていうか震えるのを感じることがあるんだ。学校では、やたらなやつに話すと馬鹿にされるだけだろうから話さない。でも北林ワタルって、家にも来たことがあるからパパも知ってると思うけど、前に女の子に告るかどうか悩んでて相談されたことがあるし、こいつなら、と思って、『もしかして、ワタルにも聞こえることある?』って聞いたんだ。信頼して打ち明けたのに、『何だいそれ。お前あたま壊れかけてるんちゃうの?』なんて言うから、頭にきて押したら倒れちゃった。ちゃんと直ぐに謝ったし、ワタルも後で『さっきは、嫌なこと言ってごめんな。』って言ってくれたのに、周りのやつらが騒いで担任を呼んじゃったんだ。ママにも聞かれたけど、その時はまだ心が整ってなくて、何も言えなかった。朝起きたら、折れてた心がパキンて戻ってて話せた。ヨガって、心にもいいみたい。」

 シゲの話を聞いてトシは、「なるほど、そんなことがあったのか。」と納得すると共に、自分の気持ちを言葉にして伝えるのは苦手だと思っていたシゲがきちんと筋道を立てて話す姿に、いつの間にか我が子が成長していることを実感して、うれしくもあった。「言いにくいこともあったと思うけど、話してくれてありがとう。それで、ワタル君とは仲よくできそうか。」「うん、だいじょうぶだよ。まあこれからは、微妙なことは話さないし。」そう話すシゲの横顔に、ちょっぴり寂しそうな陰が横切ったのを見逃さなかったトシは、それ以上触れないでおくことにした。「さあ、着替えて朝ご飯にしよう。ママも待ってる。」

 週の後半になると、トシの職場でもさすがに「最近ちょっと円が安くなりすぎてない?」とか「この頃ガソリンが値上がって困るよ。」「来月休みをとってハワイに行こうと思ってたけど、円が安いから東南アジアにしたわ。」などの会話が聞かれるようになった。しかし深刻な事態を予想する者は少なく、ほとんどが「政府が何とか対策を取るだろう、いずれ元の相場に戻るに違いない」と考えていた。より正確に言うなら「考えたがっていた」というべきかもしれない。

 けれど3日が過ぎ1週間が過ぎても円は下落を続け、対ドルで50円以上値を下げた。「あの日」の前日に1ドル128円だった為替相場が180円台になったのだ。5日目には、ガソリンをはじめ輸入材が「企業努力が限界を超えた」として高騰し始め、運送業や船舶、温室栽培農家そして電力各社など燃料を多量に使う業界がまず音を上げた。輸入材の急騰に引きずられる様に、食品をはじめ身の回りの生活必需品、医薬品、家電なども価格がジワリと上がり始めた。「食料やトイレットペーパー、医薬品が手に入らなくなる!」という風評がSNS上に飛び交い、スーパーやコンビニ、ドラッグストアなどの棚から小麦粉、乳製品などの食品、トイレットペーパーや風邪薬をはじめとする医薬品が消えた。トシが密かに愛用していた水虫の薬まで手に入らなくなったのは驚きだった。「おいおい、そりゃ無いだろう。こんな物まで。まあ、まだ2週間は持つだろうから、その間に何とかなってくれればいいけど・・・。」けれど、それから10日たっても店頭に商品がならばず、トシはやむなく辛うじて残っていた倍近い値段の代替品を購入せざるを得なかった。

 10日目前後からは、クレジットカード払いを受け付けてきた店舗や飲食店、ホテルなどは次々と扱いを停止し、支払いは現金かバーコード決済、またはデビッドカードのような即時決済のみとなった。日毎に円の価値が下がり続け、急激にインフレが進む状況では、購入の翌月や翌々月での決済では赤字の垂れ流しになってしまうからだ。クレジットカードが機能しなくなると、現金を持ち歩く習慣を忘れかけていた客と店側との間で支払いをめぐるトラブルが頻発した。また、釣り銭用の硬貨の需要が急激に増大したため、至る所で硬貨が不足する事態が発生し、大阪の造幣局が急きょ24時間体制で増産する事になったとニュースが伝えた。以前は、納車後や仕事の合間などにコンビニで100円コーヒーを買って、つかの間の息抜きをするのがトシの細やかな楽しみだったが、“あの日”の5日後には150円に値上げされた。10日後には200円に、そして月が変わってからは、500円になっていた。

 「最近は、コンビニのコーヒーまで高級品になってるぞ。」帰宅したトシが、ミキにこぼした。「最近は、スーパーに行っても毎日のように値段が上がってるから、やりくりが大変だわ。」ミキもため息をついた。「何でこんな事になっちゃったの?いったいいつまで続くのかしら。政府は何か手を打ってくれるわよね。」矢継ぎ早にミキがまくし立てた。「あの日」以降の急激なインフレへの鬱憤を、トシにぶつける事で解消しようとするかの様だった。

3.インフレが進んで喜ぶ人々

 英語に「エレファント・イン・ザ・ルーム(部屋の中のゾウ)」という言葉がある。「大変な問題が起きているのに、見て見ぬふりをしている状況」を意味するそうだ。ゾウが部屋の中にいる。それは危険な状態だが、解決策を議論したくなくて「ゾウはいない」と思い込もうとしている。そんなニュアンスらしい。「あの日」から数週間の間、日本の全体にそうした「ゾウなんていませんよ!」的な空気が蔓延した。以前には考えられなかったスピードで円が値下がりしていくのを目の当たりにしながら、「これは一時的なもので、しばらくすれば元の水準に戻る」と誰もが思い込もうとした。けれど、残念なことに“あの日”から日が経つにつれて、誰もが「目の前に確かに象がいる」ことを嫌でも認めざるを得なくなっていった。

 ドルに対して142円、154円、168円・・・と日々円安が進み、それに伴って身の回りの物の値段がジワリと、物によってはドン!と上がった。家計をやりくりしてきた一般家庭からは直ぐに悲鳴が上がった一方、自動車産業など製造、輸出に関わる業界は、連日の増収増益に沸き立っていた。そうした業界は、インフレの進行を上回るペースで賃金を上げたので、従業員の間でちょっとしたバブルの様な”高級品買いあさり”現象が起こった。トシの会社でも、高級車種の引き合いや試乗が急激に増え、伴って増えた契約に生産と納車が追いつかず、「うれしい悲鳴」を上げていた。

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yumicha2021
60代特性あり男子。趣味はブログと資産運用です。